海を越えたパスタ
自分で言うのもなんだけど、パスタを口にすることが多い。
といっても週末、私が仕事休みで自宅で料理をする土曜日か日曜日、または祝日であったりする。
たまに1週間抜けたりもするがパスタの消費量は日本の一般家庭の平均よりは多いと思う。
独身時代(このホームページを立ち上げた全盛期)なんかだとお昼に仕事場近くでパスタを食って、自宅に帰ってもパスタを作っていたほどだった。
(しまいにはパスタ狂とかパスタ病とまで言われた)
私たち日本人はこうして普通にパスタを自宅で料理したり、または当たり前のようにお店で「カルボナーラ!コショウたっぷりでね」なんて注文できるほど、パスタは母国イタリアから世界各国へと広がったのだ。
世界各地の主要な都市を訪れたとしても、きっとパスタには出会えることだろう。
そうだ、パスタはイタリアから旅立ったんだ。
パスタ(pasta)とは散々言ってるとおり「練り物」である。
練り物に限っていえば、小麦やその他の穀類を粥状にしたり、又は練って焼いたりといったものはイタリアに限らず、世界各地で考案されたに違いない。
そういう意味では小麦の食べ方は、小麦栽培の伝播とともに伝わったと考えるのが妥当だ。
栽培方法だけ教えてもらっても、どうやって食べたらいいのか分からなければ意味がない。
しかし粥状にしたり焼いたパンなどは我々が普通に思い描くパスタとはやはり違う。
どちらかというとシチリア島のヴェルミチェッリ(vermicelli)やナポリの穴あきマッケローニ(maccheroni)などが我々が今日パスタと呼ぶものなのだ。
このヴェルミチェッリという名前はイタリアのみならず、フランスではヴェルミセル、ドイツではヴェルミシュ、イギリスではヴァーミセリという名称で中世以降にその名が登場する。
日本でもヴァーミセリやマカロニといった言葉が明治時代の文献に残っている。
ただ、これらは情報(噂)だけの伝達であったのだとも思われ、実際にシチリアのそれと同等のものが情報と同じくして伝わったかどうかは疑問だ。
人から人へ「あそこの人はこんなの食ってるらしい」という噂がイタリアから世界に発信されたのだろう。
物ではなく言葉として世界各地に残るものは多い。
先のパスタの歴史にも書いたアピキウス(Apicius)の料理書に登場するトルタは現在のラザニアに近い料理であるが、これがフランスの焼き菓子のタルト(仏語:tarte)になったのではないかとも思える。
(現在、イタリア語のトルタ(torta)はタルトのことである)
また、もう少し有名なのがこれまたフランスの焼き菓子マカロン(macaron)で、想像のとおりマカロンの語源はマッケローニ(maccheroni)だ。
中世の時代、フィレンツェに現われた大富豪メディチ家(Medici)の名は、歴史に詳しい方でなくても耳にしたことはあるかも知れない。
メディチ家は東方貿易と金融で成長し15世紀初頭には欧州一の銀行資本家となった。
だが単なる大富豪ではなく、市政の実権を握っていただけでなく、ローマ教皇やフランス国王を始め近隣諸国の君主にまで金を貸し付けていたほどで、裏で政治を操っていたとも。
(実態は高利貸しだったようだが)
メディチ家一族は教皇を二人、フランス王妃を二人輩出するなど王族顔負けの権力を持っていた。
その中でフランス王妃(アンリ二世妃)となったカテリーナ・デ・メディチ(Caterina de Medici)がフィレンツェからフランスへ旅立つ際に供に従えたのは菓子職人であったという話である。
こうしてイタリアからマカロンの原形とも言えるものが伝わったのだとも言う。
またパン職人がおり、ローマ時代に培った高品質な発酵パンがフランスに伝わったのだという話もある。
この時代であればシチリアのマッケローニ(ヴェルミチェッリ)は誕生していただろうし、もしかしたらパスタなんかも持ち込まれたのかも知れないが、持ち込まれたのはマッケローニという名前もしくは噂だけだったのかも知れない。
シチリアやナポリのマッケローニが北上してフランスに至る過程で、いつの間にやら焼き菓子へと姿を変えていったのだろう。
このマカロンだが、ちょっとインターネットで検索してみるとなぜか仙台という地名が頻繁に登場してくる。
なぜ仙台なのかはまったく分からなかったが、マコロンという名前も出てきた。そして、ソニーのAIBO(初期の角張ったヤツじゃなくて、丸い顔したAIBO)の黒いヤツが「マカロン」という名前だということも知る。
17世紀後半、ナポリで乾燥パスタの製造がはじまったことにより、ナポリのマッケローニの噂は広がった。
もちろん乾燥パスタであるのだからマッケローニそのものが流通していたとも考えられるが、大量輸送なんてできる時代ではないもんだから遠方においてはきっと貴重なものだったはずだ。
海を隔てたイギリスでもマッケローニの噂は伝わり、新しいもの好きの中産階級の若者の話のネタになった。
もともとはオルマックという高級レストランがナポリのマッケローニをメニューに載せたことから始まったそうだが、流行りものに目がない中産階級の若者は群がったという。
いつの日か、彼らのようないわゆる新世代の若者たち(もう死語に近いが新人類みたいなの)のことをマカロニ(macaroni)と呼ぶようになったのだった。
そして彼らも自らをマカロニと称しマカロニ・クラブ(macaroni club)というグループまで作ってしまったのだった。
このマカロニは日本でも知られている「アルプス一万尺」にまで登場する。
この歌は日本で独自の歌詞がつけられた歌でもともとはアメリカ民謡のヤンキー・ドゥードゥル(Yankee Doodle)という歌だ。
日本だと
アルプス一万尺
小槍の上で
アルペン踊りを
さあ、おどりましょ
てな具合。今にも口ずさんで歌ってしまいそう。
この歌詞は原詩とはまったく関係なくつけれらた日本歌詞で、アメリカの歌詞は
Yankee Doodle came to town
Riding on a pony.
He stuck a feather in his hat
and called it macaroni.
(和訳)
ヤンキー・ドゥードゥル、ポニーに乗って町に来た
帽子に羽根を突き刺すと、これがマカロニだって言ってたよ
である。
この歌詞の起源については諸説あるのだが、もっとも有力なのは1750~1754年のフランス・インディアン戦争と呼ばれるアメリカ大陸での植民地戦争があったころリチャード・シャックバーク(Richard Schuckburg)という軍医が、現地の田舎兵をあざけて歌ったというものである。
ヤンキー(Yankee)とはアメリカ人全般を指す蔑称であるが、当時はニューイングランド(アメリカ北東部)に住む人のことを指していた。
当時ニューヨーク近辺にはオランダ移民たち多く住み、ニューアムステルダムと名付けていたが、イギリスによって奪われてニューヨークと改められる。
そのオランダ移民たちをJankeeと呼んでいた。ヤン(Jan)とは英語で言うところのジョン(John)のようなよくある名前、つまりはオランダ人の代名詞とも言える名称で、日本でいうなら太郎といったところだろうか。(もっとも今では太郎という名前は少ないだろうけど)
kee と付けるのは「~ちゃん」「~やん」みたいな愛称で、このJankeeが訛ってYankeeとなったというのが有力な説だ。
このヤンキーが馬に跨るイギリス士官を真似て、(馬ではなく)ポニーに乗って、さらに帽子に刺した羽根のことをマカロニだと勘違いしているという田舎者を小馬鹿にした歌だろうと思われるのだ。
このマカロニは食べるマカロニではなく、先に述べたマカロニ・クラブのマカロニのことを指しているわけだ。
今でもマカロニには気取ったヤツ、伊達男なんて意味もあるのだ。
もっともイタリア語でマッケローニ(maccheroni)とは「まぬけな」といった意味もあり、マカロニ野郎とはまぬけなヤツなどと言った意味になるわけだが。
ヤンキー・ドゥードゥルの起源や解釈について、アメリカ本土でも多くの仮説と議論がなされているが、実のことろ確証を持てるものもなく、仮説の域を出ない。
アメリカのウェブサイトをいくつか探してみても、確証を得ることはできなかった。
おおよそ独立戦争あたりか、それ以前のフランス・インディアン戦争というキーワードが登場するのではあるが。
(もっとも私の英語理解力は無いに等しいので、翻訳サイトを活用してたわけだが)
その後、イタリア系移民たちによってアメリカに本当の意味でパスタが伝わったのである。
広大な土地を持ち、小麦粉の生産量も多く、アメリカ合衆国は現代では世界二位のパスタ生産量を誇っているのである。
(パスタ生産量一位はもちろんイタリア)
日本にやって来た!
日本にパスタが紹介されたのは鎖国を解き、開国した幕末から明治あたり。
敬学堂主人著「西洋料理指南」や仮名垣魯文著「西洋料理通」などといった書籍にマカロニーが紹介されている。どちらも1872年(明治5年)のもの。
「竹管の形をしたうどんのような食べ物で、機械で作られるが、日本にはその機械がないので、うどんをマカロニと同じ長さに切って代用した」と記されたものもある。
管素麺やら穴あきうどんなどと呼ばれていたようだ。
1874年(明治7年)に新潟に興行に来ていたサーカス団のイタリア人コック、ピエトロ・ミリオーレ(Pietro Milliore)が新潟に残り、牛鍋屋を開業、その後西洋レストランを開業した。
もしかしたら、このときにパスタは紹介されていたかも知れない。
彼が開業したレストランは、現在も新潟市で営業中のホテルイタリア軒の前身となった。
1895年(明治28年)に新橋の東洋軒というレストランでイタリア帰りのシェフがパスタをメニューに載せた。
しかしパスタが一般大衆に浸透するのは昭和に入ってからのことである。
明治40年頃、新潟県加茂市で製麺業を営んでいた石附吉治氏のもとへ外国大使館から(横浜の貿易商会経由で)穴あきのマカロニを作って欲しいという依頼がやってくる。
石附吉治はマカロニを作ろうと試みるものの、志半ばでこの世を去ってしまい、その後息子の石附吉郎氏がマカロニ製造機を開発したのであった。
これが日本国内で最初に作られたマカロニであると思われる。
昭和6年の大阪毎日新聞に「マカロニー研究にイタリーへ派遣:藩州素麺組合の計画」という記事が掲載されている。
播州とは兵庫県の姫路市から赤穂市の近辺。忠臣蔵で有名な播州赤穂浪士や怪談「播州皿屋敷」の播州ですなあ。
麺類でいうと「揖保の糸」という素麺ブランドが有名ですね。
イタリアでのマカロニ研究が本当に実施されたのかはちょっと分からなかったが。
その後、日本は戦争への道を突き進むことになるのは周知のとおりである。
戦渦のなか、日本の食生活は当然ながら悪化する。もちろんパスタどころではないし、米すら満足に行き渡らない時代である。
終戦後の混乱期を乗り越え、パスタは一気に開花するときがやって来る。
1955年(昭和30年)、フジ製糖(株)と日本精糖(株)が共同出資して、マ・マーマカロニ(株)の前身ともなる日本マカロニ(株)を設立する。
同年、日本製粉(株)もオーマイブランドを立ち上げてパスタ生産を始めた。
両社ともイタリア製の当時最新鋭のパスタ製造機を導入ししたことで、本格的なパスタ生産が始まった。
まさに1955年(昭和30年)はパスタ元年とも言われる年である。
(マ・マーは昭和42年に日清製粉グループの日清フーズが販売を譲り受ける)
翌年、1956年(昭和31年)に社団法人の日本マカロニ協会が設立。現在は日本パスタ協会と改名し、日本有数のパスタメーカーが加盟している。
それから日本ではマカロニというとイタリアの代名詞ともされ、「サヨナラ!サヨナラ!サヨナラ!」で有名な映画評論家の故・淀川長治氏は1960年代のイタリア製西部劇映画などをマカロニ・ウェスタンと命名したのである。
1972年(昭和47年)から日本テレビ系で放映されていた「太陽にほえろ」に登場した萩原健一演じる早見淳に付けられたマカロニというニックネームも、このマカロニ・ウェスタンの登場人物のような格好をしていたために付けられた。
もともと日本人は異国文化を寛容に受け入れ、それを自己流にアレンジするなどし、自分たちの生活に上手く取り込むことに長けているように思う。
それにうどんやそばなどの麺文化に親しみがあった日本人にとってパスタは感覚的に馴染みやすいものだったのだ。
こうして日本に上陸したパスタは、日本の食文化に溶け込み独自の発展を遂げることになるのだ。
たらこスパゲッティなどはパスタに和風の道を切り開いた革命的なメニューであったし、醤油や納豆といった純和風な食材も違和感なくパスタと融合していった。
ああ、長かった。。。