起源は農耕文化
パスタの起源を語る前にまず人類の食生活の歴史をひも解かねばならないだろう。
最古の人類はもちろん火などは知ってるわけないので、食べ物をそのまま食べていたと考えるのが妥当だ。
まだ決まった場所で生活をする事など知らない人類は食糧を求めて彷徨う放浪者たちだったのだ。
しかも人類はめっぽう弱い。
そりゃあ大自然を闊歩する大きな獣なんかとまともに戦って勝てるわけない。
ところが人類には十分に発達した脳を持っていたし、二足歩行を会得したことにより自由に両手を使えることも出来たのだ。
「猿は道具を手にした」とはよく聞くフレーズだが、道具を使うようになった「猿ども」は火を発見し、それを利用するまでに進化していったのだった。
目覚しい進歩だ。猿が人間になった歴史的事件だ。
地球環境は決して良くなかった更新世に登場した人類であったが、約1万年前から完新世(後氷期)に入ると地球は温暖になっていく。
そんな中から数ある植物の実りのサイクルを知った者が栽培なんか始めちゃったりしたんだと思う。
これが農耕文化のはじまりであり、今まで食糧をただ獲得するだけの人類は自ら食糧を生産するようになるのだ。
より収穫のある植物を吟味しては厳選していき、より収穫に適した土地に安住するようになり、数名のグループが集落となり村となっていったのだろう。
農耕はまた財産という概念を生みだしたとともに、今までギリギリだった食糧がゆとりができ働かずとも食べれる者が現われてくるのである。
そこから貧富の差ととも階級、職位などといった考えが生まれてくることになる。
英語のカルチャー(culture)を辞書で調べてみると「文化、文明」という意味の他に「教養、洗練」などの意味がみつかるが、もうちょっと見てみると「耕作、栽培」なんて意味もカルチャーにはある。
またこれはcultivate(耕すの意味)やagriculture(農業、農耕の意味)に通ずるのである。
つまりは農耕のはじまりこそが、人類が人類たる「文明」の出発点であるに違いないのだろう。
さて農耕はどこから始まったのかという話は諸説あるので何とも明確ではない。
メソポタミア文明発祥の地、チグリス川とユーフラテス川の地域から地中海東海岸までの俗に言う肥沃な三日月地帯が農耕発祥の地であるというのが従来の定説だったのだが、中国の長江流域でそれ以前の約1万3千年前から稲を栽培していたということが近年明らかになったらしい。
そもそも海を越えたアメリカ大陸やオーストラリア大陸なんぞは古くから住んでいた先住民たちが植物は違うだろうけど、農耕技術なんかをきっと発明してたに違いない。
どこか一箇所から発祥した農耕がすべて同じ場所から世界に伝播したというのは明らかに変な話だ。
少なくとも現在見つかっている遺跡などからは1万年ほど前から、恐らく世界のいたるところで農耕技術が誕生したのだと考えるのが筋の通った説ではないか。
パスタに話を戻すことにして、パスタというとやはり小麦なわけだ。
小麦や大麦などムギ類農耕の発祥地は先にも書いた肥沃な三日月地帯だということだ。
だいたい1万年前という途方もないくらい昔。
西には西アジア、エーゲ海からバルカン半島へ、または地中海からヨーロッパに伝来した麦農耕がヨーロッパ全域に伝わったのは紀元前3000年頃。
南へは紀元前3000年頃にエチオピア高原へ。
南東へは紀元前6000年頃にインダス地方に伝わり、メソポタミア文明やインダス文明はこの麦農耕を基盤としたとされ、
さらに中央アジアからさらに東、中国へは紀元前3000年頃に伝わったそうだ。
現在、小麦の主要生産国であるアメリカへ小麦が伝わったのはコロンブスのアメリカ大陸発見以後のことで、オーストラリアには18世紀にイギリス人によって伝えられたという。
古代ローマ時代
じゃあ、どうやって食べてたのか。
初期のローマ人たちはプルテス(pultes)と呼ばれる小麦や黍などの穀物を荒挽きにしたものを粥状に煮込んだものを食べていた。
これは現在トウモロコシの粉を水やスープで練って作るポレンタ(polenta)に通ずるものであるが、イタリアのロンバルディア地方やその他の北部ではポルス(pols)やプルス(puls)という名前が残っている。
このプルテスこそが(小麦を水で練ったものという意味では)最初のパスタ料理とも言われている。
またプルテスのような穀物の粥が吹き零れたりして薄く焼かれたといった偶然の発見かそれとも誰かがひらめいたのか、テスタロイ(testaroi)という穀物の粥を薄く焼いたものも古代ローマにはあったという話だ。
これを現在のタリアテッレ(tagliatelle)のように細く切ったりもしたようで、これと似たようなものでは古代ギリシア人が食べていたといわれるラガノン(λαζανον、laganon)、ラテン語でラガヌム(laganum)と呼ばれるものがある。
これがラザーニャ(lasagne)の元となったのではないかと推測されている。
イタリア南部地方ではタリアテッレを指す言葉としてラガネッレ(laganelle)や麺棒を意味するレガナトゥーロ(leganaturo)などが残っている。
またタリアテッレの語源であるタリアーレ(tagliare)は「切る」という意味だが、先に登場したテスタロイとはかなり強引すぎるが似ているような似てないような。
一方、古代エジプト人はサドルカーンと呼ばれる石皿の上で小麦をすり潰す道具を使っていたが、その後、ロータリーカーンという回転式の石臼を考案した。
彼らは製粉した小麦粉に水分を加えて練り上げると弾力性、粘着性が生まれるという特性(グルテンの性質)を知っており、紀元前1500年ごろに発酵パンを発明するのである。
このパンは紀元前800年頃にギリシャに、それからローマに伝わったとされる。
エジプト(プトレマイオス朝)最後の女王クレオパトラとアントニウスの物語でも知られているとおり、紀元前31年にオクタヴィアヌスがエジプト遠征でクレオパトラ・アントニウス連合軍をアクティウムの海戦で破り、翌紀元前30年にエジプト王国は滅亡、ローマの属州となる。
エジプトから凱旋したオクタヴィアヌスは紀元前27年に「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を与えられ、帝政ローマは全盛期を迎えるのである。
古代ローマといえば「パンと見世物」といわれるとおり、ローマ市民は自給自足の生活から帝国によるパン(などの食料)の安定した配給を受けていた。
このころの市民の主食といえばもっぱらパンで、属州から供給された小麦は専門の職人によって焼かれていた。
市民自らが料理をするということはなく、食料は貨幣を使って購入するか帝国から安価(時には無料で)配給されるパンを口にしていたわけだ。
といっても、食料の配給を受けれなかった人も多数いたわけで、そういう人々は恐らくは自給自足で雑穀類を先に述べたプルテスのような粥状で食べていたのだろう。
どうやら我々が思い描いているようなパスタはまだこの時代には登場してこないわけだが、世界で最古のレシピ本ともいわれる有名なアピキウス(Apicius)の料理書に「アピキウス風のトルタ」というものが登場する。
これでもかというくらい小さく切った肉(たぶんミンチ状)を卵を泡立てコショウやワイン、魚醤、ワインなどを入れて煮込んだものと小麦粉を薄く延ばしたラガノンとを幾重にも交互に鍋に入れて(たぶん焼いた)もので、今でいうところのラザニアにかなり近い。
このトルタ(torta)だが私の手持ちの伊和事典を調べてみると「ケーキ、パイ」という意味らしい。
これはパイ生地やビスケット生地を型に入れて焼いたものにクリームや果物をのせたフランス菓子のタルト(仏語:tarte)に通ずるのもである。
さてこのアピキウスだが、古代ローマ時代(紀元前後)の金持ち美食家という説が有力で、アピキウスの料理書は彼のメモをもとに実際には帝政ローマ後期に書かれたものだといわれている。(真意は定かではない)少なくとも古代ローマ料理を知る数少ない書物である。
アピキウスはその財産で美食の限りをつくしていたのだが、自分の財産(めちゃくちゃ金があったけど)を「こんな貧乏じゃ飢え死にしちゃう!」とか言って自殺してしまったのだった。
帝政ローマ滅亡から中世
4世紀、ゲルマン民族西ゴート族が南下を開始しドナウ川を越えて帝国領内に安住の地を求めたことに端を発し、他のゲルマン諸民族の大移動からはじまった辺境でのゲルマン人の侵攻はより激しさを増していた。
395年ローマ帝国は東西に分割、476年に西ローマ帝国はついに滅亡を迎えた。
パックス・ロマーナ(Pax Romana:ローマの平和)と言われた帝政ローマの滅亡から数世紀は一転してひっそりとした質素な食生活をたどる。
このころに小麦粉をこねたものを丸めてスープで煮た原始的なニョッキ(gnocchi)や「アピキウスのトルタ」から発展したと考えられるトルテリーニ(tortellini)のような詰め物系パスタが誕生したと考えられる。
当時小麦粉を水で練ったものをマッケローニ(maccheroni)と総称していたようで、それは現代の我々が「パスタ」と総称しているようなものだ。
ちなみにマカロニ(macaroni)は英語。
902年、ビザンツ帝国(東ローマ帝国、ビザンティン帝国)の領内にあったシチリアは強大していたイスラム勢力(アラブ人)の配下となった。
イタリア半島の長靴が蹴っているナスが美味しいシチリアーナのあのシチリア島。
アラブにはイトゥリア(itrija)という名前の乾麺があり、現在シチリアの方言でトリー(trii)というパスタが存在することから、アラブ人によってシチリアにもたらされたという説が誕生したのだろう。
この説に尾ひれがついてアラブといえば何となく砂漠、砂漠といえばやっぱりラクダ、勝手な想像でラクダに乗ったアラブ人の商人(キャラバン隊)が小麦粉を乾燥させて保存食としたのだという乾燥パスタ誕生伝説ができあがったとも思える。
アラブからシチリアにもたらされたというのがもっとも定説としていわれている乾燥パスタの起源であるが、その目的が砂漠の保存食とはやはり考え難い。
「パスタの迷宮(洋泉社)」の著者・大矢復(ただし)氏はこれらから地中海航海においての船上保存食として作られたものが乾燥パスタの起源だと論じている。
海上航海のために作られた乾燥パスタはシチリア島に上陸し、シチリア風マッケローニ(当時マッケローニは小麦をこねた物の総称)やヴェルミチェッリ(vermicelli)と呼ばれるに至る。
もっとも当初のヴェルミチェッリ(バーミセリ)は細いものではなく、現在のスパゲッティほどの太さであったらしい。
スパゲッティと呼ばれるようになるのはもっと後世のことであるが。
さてパスタの起源について語られると必ず登場するのが「東方見聞録」で知られるマルコ・ポーロ(Marco Polo)である。
イタリア出身のマルコ・ポーロが中国で生まれた麺を母国に持ち帰り、パスタが広まったという伝説である。
もちろん中国にも小麦は伝播しており、紀元前の頃から餅(ビン)と総称される小麦製品があっし、もちろん麺類のようなものも存在していたとしても不思議ではない。
しかし、マルコ・ポーロが東方から帰国する1295年以前、ジェノヴァの公証人ウゴリーノ・スカルパはポンツィオ・バストーネという男の財産目録に「箱いっぱいのマッケローニ」と記している。
箱に入れて保管するのであれば、まず間違いなく乾燥パスタであっただろう。
そもそもそれ以前にパスタはイタリアにあったし、12世紀のシチリアには乾燥パスタの大規模な製造が行われていたのである。
帰国後、ヴェネツィアとジェノヴァとの海戦で捕虜の身となったマルコ・ポーロは牢獄でルスティケロという作家に自分の東方での体験談を語り、このルスティケロが書きまとめたのが「東方見聞録」である。
しかしこの「東方見聞録」には中国の麺やそれに類似する記述は一切ないことも事実である。
フランスのフランソワーズ・サヴァンは、20世紀になってからアメリカの全米マカロニ生産者協会が発刊していた「マカローニ・ジャーナル」という雑誌に空想で語られたマルコ・ポーロ伝説を何の根拠もなく書いたことがこの俗説のはじまりであると明らかにしているのだ。
東方への貿易の道を切り開いたという意味でマルコ・ポーロの旅がもたらした影響は大きいことは間違いではない。
それにパスタ起源伝説という空想を作り上げる、それはやはり伝説に過ぎない。
パスタ・ルネサンス
14世紀に入るとルネサンス(Renaissance)がイタリアから興る。
ルネサンスとは人間性解放をめざす文化革新運動のことである。
もっと噛み砕いて言えば「アンタと私は違うんだ。それでいいじゃないか。もっと自由に個性を発揮しようじゃないか」といった感じ。
このルネサンスは14世紀から16世紀に西欧で広まり芸術、文学、建築、自然科学などなど多方面にわたり西欧近代化の思想的源流となる。
各地宮廷は料理の分野において更に洗練された高度なものとなり、この頃になると料理全般となるテキストも数多く出版されて、それは調理法のみならず味覚やサービス様式、食卓の礼法など多岐にわたるものもあった。
ルネサンスがいち早く興ったイタリア・フィレンツェの作家ジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio)の諷刺作品「デカメロン(原題:Il Decamerone、邦題:十日物語)」にはパルミジャーノチーズで出来た山を転がり落ちるマッケローニが登場する。
同じ時代、フランコ・サケッティ(Franco Sacchetti)による「三百話集(邦題:ルネッサンス巷談集)」の中で、主人公がマッケローニをぐるぐる巻いて飲み込む場面が描かれている。
これらからマッケローニ(今で言うパスタの総称と思われる)はイタリア市民にはすでに広まっていたと考えることができるだろう。
パスタを専門に作る職人も登場し、品質向上を目指し同業者内で規則を設けた組合のようなものもあった。
パスタの製造(主に形成)する道具の開発も盛んだったようで、生地を穴から搾り出す圧搾機や箱に針金を張り、生地を押し付けて細長い棒状のパスタを作るキタッラ(chitarra)と呼ばれる道具なども考案されたようだ。
ふたたび伊和事典を調べてみるとキタッラ(chitarra)は楽器のギターのことであることがわかる。
箱に張った針金を弦にみたててギターと名付けたのだろう。
キタッラは今でもアブルッツォ州で使われており、maccheroni alla chitarra として残っている。
15世紀の書物には穴のあいた、今日私たちがマッケローニ(マカロニ)と呼ぶ管状のパスタの作り方が登場する。
また管状のマッケローニはナポリで考案され、他に類をみない形こそナポリブランドを主張する最大の方法とも考えられる。
このナポリの穴あきマッケローニの大ヒットにおいて、ナポリ人はかつて自分たちがシチリア人たちをそう呼んでいた「マッケローニ食い(mangia maccheroni)」へとなっていくのだ。
もちろんナポリの気候がパスタ作りに最適であったこともナポリがパスタ生産の本拠地として名をあげる理由のひとつとも言える。
小麦粉をこねるにはある程度の湿度が必要で、適度に湿った海から吹く風が最適であるし、逆にパスタを天日で乾燥するにはアペニン山脈から吹き下ろす乾燥した風が美味しいパスタを作った。
1492年、クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)がアメリカ大陸を発見。
それから新大陸との交流がはじまり、食物で言えばジャガイモ、トウモロコシ、そして忘れてはならないトマトがヨーロッパにもたらされた。
もっともトマトはもともと観賞用として持ち込まれ、果実は今のプチトマトほどの小さなものであった。
しかもある学者には「すっぱくて、皮でできた胃袋を持つ者だけがその味に耐えられる」とまで言われた。
事実、トマトには毒があると長きにわたり信じられていたのである。
1592年にスペイン人の植物学者がトマトの毒性を否定し、食物としての価値を明らかにする。
それから100年後の1692年にナポリのアントニオ・ラティーニという料理人が自身の著書の中で「スペイン風トマトソース」として紹介したのが、最初のトマトソースであったと言われている。
スペインで無害と証明されたトマトが、当時スペイン領であったナポリでスペイン風トマトソースとして生まれたこと、そして、ナポリの穴あきマッケローニの大ヒットもあり、ナポリはパスタの本場とまで謳われるに至ったのである。
産業革命から近代
少し歴史をさかのぼり13~14世紀頃、パスタはマディア(madia)と言われる木の槽に小麦と水を入れ、天井につるした紐につかまって足で生地をこねていた。
人間の力でパスタを練るのだから、パスタ生産といっても大量に作れるものでもないし、かなりの重労働だったようだ。
またナポリでは大きな木箱に長い横木を斜めに取り付け、横木の端に職人が座り、てこの原理でもって歌を歌いながらリズムよくパスタをこねていたりもした。
家畜の引く力を歯車で伝え、餅つき機のようにパスタをこねたりもしたようだ。
18世紀、イギリスで起きた産業革命はもちろんイタリアにも波及し、当然ながらパスタ産業の機械化もすすむ。
面倒であった小麦粉の製粉も水力や蒸気を動力とした機械によって飛躍的に生産性を伸ばし、力作業であった生地を練るといった工程も人力から機械へと変革をもたらす。
パスタを成形する圧搾工程も当然機械が使われるようになったのは言うまでもない。
機械化が進むと今まで手工業であった職人の技を必要としなくなる。とくにイギリスでは熟練労働者は機械に職を奪われ、1811~17年にかけて大規模な機械破壊運動、ラッダイト運動(Luddites movement)が起こった。
ラッダイトとは運動の中心人物と思われるネッド・ラッド(Ned Ludd)から付けられた。
イタリアではイギリスほどの運動が起こったわけではないが、1870年代にはマルセイユから導入された製粉機械に反発をした「マルセイユの暴動」がナポリで起こったりもしたらしい。
1875年にはディ・チェコ(De Cecco)社の創始者であるフィリッポ・ディ・チェコ(Filippo de Cecco)はそれまで天日干しで天候に左右されていた乾燥工程を自動化しようと、回転式乾燥機を開発する。
単純な機械でパスタを吊るしたメリーゴーランドのようなものを想像していただければ良い。
そういえばテレビで似たような機械でスルメイカを乾燥させてたのを思い出した。
洗濯物を干すようにスルメイカが吊るされ、ぐるぐると機械によって回転させられているのだ。
しかもその機械が数台並んでいるという、不思議な光景だった。
このような機械化が進むとパスタ産業は職人から資本家時代へと移り変わることになり、この時代には実に数多くのパスタメーカーが起業している。
1824年にパウロ・アネージ(Paulo Agnesi)がアネージ(Agnesi)社を設立。
1827年にパスタ名人とも言われたジュリア・ブイトーニ(Giulia Buitoni)が夫とともにブイトーニ(Buitoni)社を設立。
1877年にピエトロ・バリラ(Pietro Barilla)がバリラ(Barilla)社を設立し、今ではイタリアシェア1位を誇るメーカーにまでになる。
1887年に回転式乾燥機のフィリッポ・ディ・チェコ(Filippo de Cecco)が私が大好きなディ・チェコ(De Cecco)社を設立。
きりがないのでこの辺にしておいて、有名どころのパスタメーカーがこぞって設立された時代だった。
それから粉を入れるだけで、パスタができてしまう完全オートメーションなハイテク製造機なども続々と開発されていったり、生地を圧搾してパスタが出てくる金属で出来たダイス(鋳型)もブロンズダイスであったものがバリラ社によってテフロン製ダイスが開発されたりと、パスタの生産性と品質は目まぐるしく進化していったのだった。
20世紀に入るとひも状のパスタにスパゲッティ(spaghetti)と命名されるようになる。その語源はspago(ひもという意味)である。
こうしてイタリアの食文化として根付いたパスタは今では世界中に輸出され、また世界中で作られるようにもなったのだ。
私たちの食卓に並ぶまでの世界的人気食品となったパスタの道を振り返ると、現代に至るまでに創意工夫、ひらめきと失敗を何度も繰り返し、パスタに込められた数多くの情熱と歴史の重みを伺い知ることができる。
まさに「パスタは一日にして成らず」ではないか。